「地(知)の拠点整備事業」 ふくしま未来学 平成26年度シンポジウム
地域における学校現場と大学の連携による人づくりの可能性(2)
パネルディスカション 福島における学校現場と大学の連携(2)
内閣府参事官 井上博雄氏は、震災後、内閣府が福島県内で取り組んできたこと、今後の計画などを話した。まず行ったのは住民説明会だった。その数約200回。福島県内に限らず、県外各地でも集会所などを利用して、住民たちの声を聞いた。
続いて氏は、被災地域の移り変わりを話した。たとえば川内村。また住民に個人線量計が配られた。山間部である村に工業団地が建設される。川内村の行政、民間企業、国のバックアップがそろって成り立った取り組みだ。教育分野では川内村で「ふたばワールド」が開催された。双葉郡の子供たちを中心に、さまざまな活動の発表の場となった。住民説明会から生まれた取り組みに「イノベーション・コースト構想」がある。ロボット開発という新しい技術を通して、新しい産業をつくっていきたい。2020年を一つのメドにしているが、計画で終わらせないことのないよう、実現させていきたいと氏は語った。
東日本大震災が起きた3月下旬、秘書を勤めるソフトバンクの孫社長と共に、福島県入りした荒井優氏。「義援金を送るだけの支援」にしたくないと同社が設立した東日本大震災復興支援財団の専務理事として、頻繁に福島県に通い、主に子どもたちを対象とした福島県の復興に寄り添ってきた。パネルディスカッションは、教育関係者でもなく、震災前までは福島県に直接縁のなかった荒井氏の話で締めくくられる。
荒井氏は、自身が北海道出身であることを紹介し、氏の故郷である北海道で20年前に起きた災害についてふれた。1993年に発生した「北海道南西沖地震」である。震源の深さ34キロ、マグニチュード7.8、推定震度6だった。地震発生直後に大津波が発生し、奥尻島は一瞬にして壊滅状態になる。この震災により、198名の尊い命が失われた。復興に向けて奥尻町は居住地の移転、区画整理などを行い、新たな集落づくりにつとめた。津波対策として防潮隄や津波水門などを建設。避難路も整備した。このようにして町は、震災から5年後の1998年に「完全復興宣言」を出す。その一方で産業振興が進まなかったため人口減少に歯止めがかけられなかった奥尻町は、震災から20年後の2013年には全国で有数の人口減少率を記録した。つまり氏は、福島県の復興は記念講演での海士町の成功事例だけではなく、奥尻島の失敗例からも学ばなければならない。奥尻島の復興活動ではインフラの整備に力をそそいだものの「人づくり」の面がおろそかになっていたことを説明した。
氏が勤務する財団は「子ども支援」に力をそそいでいる。ここで双葉郡の子どもたちのことにもふれた。二本松市内にある浪江町立小学校を訪れる。小学1年生の女の子が授業を受けている姿に心を打たれたという。双葉郡の子供たちの学校づくり、双葉郡の教育関係者とのワークショップ、「子供未来会議」など、話し合いの中には荒井氏も加わっていた。
福島県の復興支援にかかわる中で、氏は「復興とは何か?」と考え続けたという。その答えを求めて、新潟県山古志村に行ったときのエピソード。スライドで紹介したのはアルパカの写真だった。新潟県中越沖地震後「山古志が元気になれば」とアメリカコロラド州から3頭送られてきたという。飼育するうちに頭数が増え、現在は村に2箇所ある牧場に、県内外から多数の観光客が訪れている。氏は「時には勘違いと思うような支援もあるかもしれない。でも、それをどういかすかは支援された方の知恵と工夫だ。支援者の気持ちを受け止め、いかしてほしい」とのべた。
「私は教育の専門家ではないが」と前置きをした上で氏は、双葉郡での教育の取り組みは、まだまだ教育関係者だけの世界になっていると話した。3年間密に福島県に関わり続けた氏は「これは双葉郡だけではない。福島県全体の問題だ」と言った。