福島県民になったことで、子どもの頃の夢を叶えた 「武田よしえの 自分史」
1962年12月6日午前7時55分に、私は埼玉県鴻巣市で生まれました。身長50.5センチ、体重3,262キロ。当時は助産院で産婆さんに取り上げてもらうのが一般的でした。身長148センチと、当時としても小柄だった母の臨月の姿は大きなお腹を抱え、まるでゴムまりのようだと周りから言われたそうです。
2人の子どもを妊娠中、切迫流産や切迫早産で入院した私と比べると、小さな身体で3人の子どもを出産した母。すごいなぁと思います。
本が好き、文章を書くのが好きだった子ども時代
子どもの頃から本を読むことが好きだった私は、そのことを肯定し、さらに育ててくれた先生と小学校高学年で出会います。先生の奨めで読書感想文をはじめ、作文をたくさん書くようになった私の当時の夢は「将来作家になること」。
でも子どもながらに実現が難しそうだと思い、本を売る業界(書店・取次店)に就職。出産退職するまで勤務していました。
ちょっと遅い結婚・妊娠
1995年11月3日文化の日に式を挙げました。夫43歳、私32歳。「そろそろ赤ちゃんが欲しいね」と思った頃に妊娠。産婦人科で「おめでたですね」と告げられ、院内の公衆電話から夫に連絡。受話器から聞こえた「ありがとう」という言葉に涙した思い出が。
思わぬ転勤で福島県民に・そして待望の第二子誕生
1997年7月1日午前9時45分、東京都国立市の産婦人科で長男を出産。お腹がすいた時以外はよく眠る子で、育てやすい赤ちゃんでした。長男の可愛らしさにもう一人子どもが欲しくなったもの、授からないまま夫の転勤により誰も知る人のいない福島県に転居。その年の秋に待望の二人目を妊娠。2001年6月10日午前4時58分に二男を出産。同時刻、留守宅で夫と一緒に寝ていた長男が「おかあさ~ん」と言いながら泣いたというエピソードつきです。
二男の誕生が、私にもたらした決意とは
二男を身ごもったとき「一人っ子なら夫の収入で、なんとか生活できそう。でも二人となればそうもいかない。私も仕事を始めよう」と決めました。でも知らない土地で、身近に育児を頼れる人もいない私たち。「おかあさんは家にいて」と甘える当時4歳の長男の希望もあり「在宅でできる仕事はないかな」とネットサーフィンして出会った、在宅ワーカー運営サイトから仕事をいただくようになりました。
そのサイトに、私の在宅ワーク体験記を2004年7月から13回にわたって掲載したところ、大きな反響をいただきました。これが子どもの頃憧れていた「書く仕事」につながる第一歩だったと思います。
「在宅でもできること」仕事探しがライターの道への一步に
引き続き、インターネットを利用して家でできる仕事を探していた私は、2005年4月からメールマガジン執筆代行会社が運営する、ネット通信講座スタッフを1年経験。その後、同社の契約ライターとして登録し食品系、金融系、機械設備関係などのメールマガジンやウェブサイトの執筆を請けるようになりました。
タウンリポーターを通して福島県の良さを知る
2003年に全国紙の福島県版のタウンリポーターに登録。50記事以上書き、福島県のことを少しずつ知る中で、福島県のことがだんだん好きになってきました。この時に出会った方々とのご縁が、のちに「本を出す」ことにつながります。
初めての本出版
長男が学校の図書館にリクエスト!
タウンリポーターの取材を通して出会った方の出版記念パーティーに出席。出版社との交流があった独身時代を思い出して懐かしくなり、ご挨拶した出版社に年賀状を出します。
ほどなく出版社の社長から連絡がきて、歴史をからめたガイドブックの作成を依頼されました。2010年4月、郡山市、本宮市、須賀川市、三春町のガイドブック「ふるさと散歩」を出版。取材・撮影・執筆すべてを担当し、大変苦労しましたが自分の名前が掲載された書籍がでたことが、とにかく嬉しかった。また当時中学生だった長男が、自分の通う学校の図書室に本のリクエストをしたことも嬉しかった思い出です。
東日本大震災発生!
ライターとして私になにができるのか?!
2011年3月11日、東日本大震災発生。私の住む郡山市には県立高校の体育館を中心に、浜通りから避難されてきた方の避難所ができました。炊き出しに行く知人の姿を見ながら、学校や会社が一時的に休みになり、1日中家にいる家族のための買い物や食事の支度で手一杯だった私。そんな自分が情けなかった。
また当時は県内の状況を知ることが難しかったので、「ふるさと散歩」でお世話になった出版社の様子を知るために、震災の1ヶ月後に会津若松市に行きました。社長は弱っているどころかその逆で「世界でもまれに見る原発災害が福島県で起きた。このことをぜひまとめてほしい」と依頼され、真に受けた私は福島県庁の災害対策本部や県・農業センター、ハイテクプラザを訪問。取材を重ね、約4万文字の原稿を書きます。ところが中味が面白くないとボツに。
それならとインタビュー集の出版を逆提案し、2012年1月「福島県民23人の声~3.11大震災と原発を乗り越えて」を世に出すことができました。
過労により1ヶ月の静養を医師から告げられる
本の執筆は終えたものの、2011年の暮れに突然めまいを起こし近所の内科を受診。その後総合病院の耳鼻咽喉科を再受診。過労が原因と診断され、入院をすすめられましたが断り、自宅で約1ヶ月静養。動けなくなった我が身を呪いましたが、書籍の評判はよく、福島県に住むライターとして、一定の責任は果たしたように思いました。
福興ライターの商標を登録する
この本の出版を契機に、私の得意な「書く」という分野で福島県の復興に貢献していこうと「福興ライター」の商標登録をしました。復興ではなく、福島の「福」をつけたのは、他県から私を応援してくれた友人のアイデアでした。あの時の応援は、今も感謝しています。
復興関連のサイトに記事を掲載する一方、出版では2013年4月「浜風商店街~ふるさと久之浜で生きる」を取材、撮影、執筆させていただきました。浜風商店街のみなさまとは(2018年現在も)よい交流を続けています。
福島県民になって子どもの頃からの夢を叶えた私が、これから福島県にできる恩返しとはなにか?
震災から2年くらいたち、生活者目線で福島県内を見たときに、これから長い目でお役に立てることはなんだろうか?と考えていた時に出会ったのが「自分史」という世界です。
自分史を教えたり、自分史の執筆代行をしたり、聞き書きをさせていただく中で思うのは、
自分史を仕事の一つとして選んだことも、実は私が子ども時代に好きだったこととつながっていたという気づきです。たとえば私は偉人の伝記を読むのが好きでした。また社会人になってからは、気になる人がいると、その人のことをもっと知りたいと思う自分がいました。
そういう意味では震災の記憶を未来に残すだけではなく、自分史の楽しさ、おもしろさも広めていきたいです。実際、私を通して自分史を知り、元気になられた方、笑顔が見られた方の姿が私自身のモチベーションになっています。もちろん「書くこと」「取材すること」も一緒に続けてまいります。
改めまして 簡単なプロフィール
埼玉県生まれ、埼玉県育ちが、夫の転勤により
親戚や知人、友人と誰も知らない東北の地
「福島県」に住みはじめて20年以上経ちました。
海があり、山があり、湖がある。
全国で3番目に広い土地に恵まれた福島県には、
私が生まれ育った埼玉県にはない魅力があります。
気がつけば「気候よし」「人情よし」「食べ物うまし」の
「うつくしい」福島県のことが大好きになっていました。
一方、転居をきっかけにWEBに関する勉強を開始。
やがて子どもの頃からの夢だった「書くこと」を
仕事にすることができたのも福島県に住むことになったおかげです。
2004年、ライティング業務を中心にYクリエイトを開業。
メールマガジン、WEBコンテンツの執筆をはじめとして
情報誌の取材・執筆、PRビデオのシナリオ制作、福島県に関する
書籍の取材・執筆など、お客様のご要望に応じて活動の幅を広げてきました。
このように私の仕事が広がったのは「福島県」と、福島県に住んでいる方々のおかげと、
これからもっともっと、福島県のみなさんと一緒に仕事を紡いでいきたいと
思っていた矢先に、2011年3月11日を迎えたのです。
東日本大震災以降は、愛する福島県の復興を願い、
震災と復興に関するインタビューの仕事を中心に活動を続け、
2012年に「福興ライター」として商標登録をしました。
その活動は震災と原発災害を経験した福島県民だからこそ
愛する人々に自身の歩みを記録する活動を
応援することにシフトしつつあります。
事業内容
●事業内容:インタビュー・及びライティング
●屋号:Yクリエイト(わいくりえいと)2004年開業
●代表:武田 悦江(福興ライター(R) 武田よしえ)
●所在地:〒963-8041 福島県郡山市富田町字向館50-7
●営業時間:9時~17時
●休業日:土・日・祝日