なぜ、小さな宿で500回も講演会を開催することができたのか?(2)2018.4.11

4.「平成の寺子屋」花ホテル講演会

最初は偶然から始まった。3ヶ月に1回くらいだった。2001年スタートして最初の講演は2月1日だった。その講師の方は偶然泊まったお客さんで、ゆかたを着て国際経済の話をしゃべりはじめた。居合わせた仲間5~6人くらいで車座になってお酒を飲みながら話を聞いた。そしたらそのお客さんが気持ちよくなって「おまえの宿、おもしろいな。また来るよ」と言うから「また来てくださいますか」と。「こんどはちゃんと講演やるよ」と。「じゃみなさんに声をかけますから」って言って。ということでその方が2回目に来てくれたのが4ヶ月後の6月。その時にはまだ第一回、第二回と数えていなかった。こんなに続くと思わなかったので、10何回かたってから「これ、数えなきゃいけないね」となった。

 

当時は私が企画したというよりも地元の方が「こういう人を呼んでくるから講演会的なスタイルでやらせてくれないか」というふうに言われて、それで始めた。50回近くまでは会費はいただかないで無料でやっていた。なぜかというと「私が楽しんでいればいいかな」くらいに思って、みなさんに「ご一緒にどうですか?」と声をかけていた。

 

中味は「なんでもあり」。最初の頃はITやビジネスの話に力を入れていた。なぜなら私が機械音痴だったから。「これからはHPとか作らないと、自分の商売が生き残れないかもしれない」と思って、そのことばかりに集中していた。だから「HP作るのにはどうしたらいいのか」とか「お金をかけないでHPを作るのにはどうしたらいいか」とか。そんなことばかりやっていた。

●ソーシャルメデイアとの出会い

ソーシャルメディアは単なるコミュニケーションツールじゃないよということ。200回めくらいからやっていたメール配信は5,000人くらいいましたかね。今はFBの友達は2,500人くらいのなかから毎回興味のありそうな方を選び100人くらいにお知らせします。FBの友達は誰でもいいかというとそれも困るので、実際にお逢いした方とつながっている。とにかく情報発信力の高い方々とつながると「ありがたいなぁ」と感じる。最初にそういうところに参加していた。いつのまにか。学生さんとかが参加していた。得意じゃないけれどいつの間にか。だから問題意識の高い人たちとつきあうことが大切。

講演会はインターネットでライブ中継している。だから見ようと思えば、だいたい見られる。400回以降は映像も音もかなり良好。

 

●なぜ小さな温泉宿で500回も講演会を開催できたのか?

じゃなぜ花ホテル講演会が500回まで続いたかというと、一番大きな理由は私が一人で勝手にやっているからです。だからできてしまうのです。自分でも「なんで続くのだろうな」とずっと思っていた。いろんな方と一緒にやるということは歩調を合わせないといけない。でも一人なら簡単にやれるのかなと思う。いろんなことにチャレンジしている。自分のニガテなことから逃げるとだめ。自分のニガテなことに進んでいくと「それだったらこうやればいいよ」とか「こういう人がいるよ」とか、自分の友だちとか仲間が、いろんな人が助けてくれる。実は一人ではなく仲間が作り上げてくれているというのが継続の秘訣です。

 

自分が最初に「友だちと友だちをつなげよう」と思っていたことが、実は友だちにつなげてもらってるんだなということに気づいた。そういうふうになっていくと次々に友だちの輪が非常に絡み合い、弱みとかニガテな部分を補いあってくれる仲間が次々に誕生してくれる。講師の先生方もそうして友達の輪で講師快諾してくださるのでしょう。

 

たとえばHPが新しい時代になってきた。「今の作り方は昔と違って、こういうふうな作り方がありますよ」と私に教えてくれたのは今日参加されたFさん。Fさんはそういうことをいろんな人に教えたいと言っていた。教えたいけど東京にいるので、東京の人とのつながりは難しい。逆に会津とか郡山とかで友だちを見つけた方が早いのかもしれない。時々会津に行って教えたりしている。そういうふうにお互い補い合っていくと、次々に仲間が増えていく。

 

 

5.自分のできることをのばそう

「強みを活かしてなにかできないかな」私は地域の若者の交流が少ないということを気にしている。ほんとに少なくなってる。過疎化、少子化、結婚難民時代、そんなわけで私は婚活のお手伝いをする。かなり力を入れている。ライフワークで何ができるんだろう。最後に私は門前町で何かをしたいと。宿坊とか座禅とか、赤べこ発祥の地ということがあるので、そういったことをキーワードに進んでいきたいなと思っている。

 

●講演会エピソード

佐藤敦之さん、会津坂下町出身です。北京オリンピックのマラソンで一番ビリだった。ふつうは棄権しますよ。でも彼は走った。そういう男なんです。翌年世界陸上で6位入賞。

 

会津坂下町からあるとき12キロ以上走りながら宿に立ち寄ってくれました。ときどきメールでラブコールを送っていました。いつか夢がかなうのですね。

だから講師でお願いしたい方がいればまず熱い思いをメールでお知らせください。

 

●エピソード

葛尾村から避難された方の手紙を紹介。おまんじゅうの箱の裏側に書かれていたのですね。宝物です。嬉しいですよね。