土と器、大堀相馬焼と暮らしの記憶展(2) 講演・トークセッション
帰れないけど、ふるさとはそこにある。
今回の展示会のフライヤーにあった この一文が心に刺さった。
「自分の生まれ育ったところを、何のためらいもなく『故郷』と言えるのは、その土地を離れ、すでに『現在地』ではなくなった時の言葉ではないでしょうか」(藍原寛子氏)
「記憶とはとても曖昧であり、そしてとても強いものでもあります。-中略-みなさんの中に息づく浪江の記憶は、浪江そのものであり、そして福島でもあります」(小林めぐみ氏)
大堀相馬焼展示・販売会場におかれた「講演会講演者からのメッセージ」に書かれていた言葉を抜粋した。キーワードは「ふるさと」「記憶」だ。どの言葉も深く静かに私の心に刺さった。刺さるままに、この日の午後に開催された講演・トークセッション会場に出向いたのである。
展示会場ラボット隣にある アーマテラス2階での講演会。「震災後、自分たちは何ができるのだろう」と思い、プロジェクトを立ち上げたとプロジェクト浪江の代表、鈴木大久氏の挨拶ののち、馬場町長がメッセージをのべた。
1690年頃に生まれた相馬大堀焼きは、戊辰戦争、第二次世界大戦などの苦難の時期を乗り越え、昭和53年には国の伝統工芸品として指定を受けた。相馬大堀焼きという伝統の大切さを語った後、震災後の町民の苦難にふれ「これから浪江町民がなすべきことは復興ではなく創建がふさわしい。私たちの記憶を、次の世代に受け継いでいくことが大人としての責任である。不撓不屈の精神で取り組んでいきましょう」と結んだ。
特別講演には、和光大学名誉教授 最首悟氏が講演した。
聞き手は ジャーナリスト 藍原寛子氏。
最首さんは目が見えず、言葉がなく自分で食べることもしない氏の四女星子さんのことを話し、生きることのすごさ、いのちの不可思議さを語った。
トークセッションは、福島県立博物館主任学芸員 小林めぐみ氏が「暮らしの記憶の残し方」というテーマで原発事故から比較的遠い会津でできることから始まり、飯舘村の人々の生活を聞き取り、記録に残す事業を紹介。浪江町でも展開できそうな可能性を示唆した。浪江町文化財調査委員会委員長であり、郷土史家の末永福男氏は大堀相馬焼の歴史をスライドで見せた。手元にある760点ほどの焼き物から60点をピックアップ。それぞれの器のおもしろさを入手時のエピソードも交えて披露した。
締めくくりに、今回のイベントに関わった浪江町の人々が登壇。小林氏の進行によるクロストークが開催された。ひと言ずつではあったが、みなさんのコメントを紹介したい。
・散り散りになった大堀相馬焼を集め、みなさんにお見せすべく美術館を建てる予定だった。
そのタイミングで震災にあった。
・大堀相馬焼は廃藩置県のときも、なくならずに続いた。これからも続けていきたい。
・伝統工芸品は、その土地に根付いてこそのもの。新たな地でやるのなら、その土地になじんだ焼き物を作っていきたい。
・午前中、浪江町の高校生たちのワークショップに参加した。その中で全員が大堀相馬焼のことにふれていた。子どもたちは大堀相馬焼を未来に残したいと思っている。
・震災で、町民はバラバラになってしまったが、見方を変えれば、至る所に「浪江の種」があるということだ。浪江の種を持っている人たちが、浪江のことを伝えていければいい。
一人一人の言葉を受けて、場内は一つにまとまったように思えた。静かに、けれど熱い火がじわじわと炎になっていくような場にだ。3日間にわたるイベントが、これから大きな広がりを見せていくという大きな期待を込めて。